こんにちは、久川和人です。
あたりまえのことほど、それに対する感謝の気持ちを忘れがちではないでしょうか?
今回は、「あたりまえ」を見直すことで、いまここにある幸せに気づくについてお話していきます。
「あたりまえ」のこと
「あたりまえ」のこととは、例えば、親の存在です。
親がいるのがあたりまえ、子供のことを育てるのがあたりまえ、子供のことを守るのがあたりまえ・・・。といったように、どこかでそのように思っていませんか。
その「あたりまえ」のことが、どれほどありがたいということなのかを身をもって知るのは、親を亡くした時かもしれません。
僕は昔、田舎に住んでいたので、田舎で育てた野菜や果物などの旬のものが届いていました。ご近所づきあいや地域の行事も頻繁にあり、親がいたから自分はほとんどなにもしなかったのを覚えています。
有形でも無形でも、知らず知らずのうちに親に頼っていた部分があったのです。それを「頼ってもうしわけないな」と感じさせず、「あたりまえ」だと思っていました。
こんな言葉があります。
「あるべきものが、あるべきところに、あるべきように、ある」
この言葉は、曹洞宗大本山永平寺の貫主(かんしゅ)を務められた宮崎禅師がおっしゃたもの。まさしく、これが「あたりまえ」の姿ではないでしょうか。
このあたりまえの在り様こそが、それ以上ありがたいものはないということをおっしゃているように思えます。
「あたりまえ」を見直す
あなたのまわりにある「あたりまえ」を見直してみませんか?
- 朝起きると朝食が用意されている。
- 会社に行けば、自分のデスクがある。
- どうでもいい内容でもSNSで発信すると、返信をくれる友人がいる。
- 寝るためのベッドがある。
- 寝顔を見るだけで元気になる子供が育っている。
など、「いま」「ここ」にある「あたりまえ」のことにどれほど自分が支えられているか、あるいは、癒されたり、勇気づけられたり、励まされたりしているか、そのことに気づきます。
そうすると、気持ちが変わってきます。家族に対していらだったり、仕事を適当にやったり、友人関係が面倒に感じたり・・・といったことが少しずつなくなっていくのを感じます。それは、「いま」、「この瞬間」が充実していくからなのです。
僕はホームレスを経験しました。そのときは、住む場所がない、食事を満足にいただくことができない、寒くても厚手の服がないといった、衣食住が満足に得られませんでした。
でも、公園のベンチで寝ることができる、デパートやスーパーで試食をいただくことができる、地下街に行けば薄着でも暖を取ることができる、といったことに幸せを感じていたのです。
その後は、運よくシステムエンジニアとして働けるようになり、住む家がある、一日3食食べることができる、ゆっくりと寝られる場所がある、冬は厚手のコートを着ることができる、といったありふれた「あたりまえ」の生活に慣れていき、それだけでは満足出来ないようになっていきました。
ホームレスを経験して、その後、衣食住が満足に手に入ったにもかかわらず、その生活が満足できなかったのです。
そして、仕事の辛さ、人間関係の辛さから、うつ病にもなりました。その後、「あたりまえ」のことに気が付き、いま、この瞬間がどれだけ幸せなことなのかを感じるようになり、心が充実していきました。
おわりに
今回は、「あたりまえ」を見直すことで、いまここにある幸せに気づくについてお話しました。
ぜひ、あなたも「あたりまえ」を見直して、「いま」「ここ」にある「あたりまえ」のことにどれほど自分が支えられているか、あるいは、癒されたり、勇気づけられたり、励まされたりしているか、そのことに気づいてみてください。
「あたりまえ」のことを見直し、「あたりまえ」のことを大事にしようとする気持ちが生れると、すべてのことに感謝できるようになる、そのように僕は思っています。