こんにちは、久川和人です。
日々過ごしていると、いいこともあれば悪いこともありますよね。
「悪いことや思うようにいかないことがあると、落ち込んでしまう。」
それって、素直な感情なのです。だから、落ち込んでもいい。でもそんなときこそ前向きに受け止めると、立ち直りも早くなります。
今回は、落ち込んでもいい。でもそんな時こそ前向きに受け止める方法についてお話していきます。
平坦な人生なんてありえない!
どんな人生だって、山もあれば谷もありますよね。
「そんなことは誰もが頭でわかっている。」
しかし、実際に山や谷に遭遇すると、心は穏やかではいられなくなるものです。
仕事や学校でも、人間関係でも、健康のことでも、思うようにいかないと気持ちは落ち込みます。
これは「谷」にあるときですが、逆に「山」にあるときは、自分の能力を過信したり、思いあがって人を見下したり、といったことにもなるのです。
仏語に「増上慢(ぞうじょうまん)」という言葉があります。その意味は、未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたかのように誇る、ということ。これが、「山」の状態のときに起こることがあります。そのことが、人生に悪い循環を作ってしまうのです。
もちろん、人間はどんなことが起きても、どのような状況に置かれても、常に変わらず、心穏やかにいることはできないでしょう。
横綱の双葉山関は69連勝という大記録を残していますが、70勝目で負けてしまいます。そのとき、師と仰いでいた安岡正篤さんにこんな電報を打ちました。
「いまだ木鶏たりえず」
木鶏(もっけい)とは、木彫りの鶏のこと。この木彫りの鶏のように、何があっても全く動じない心を持ち合わせていない、いまだその域に達していないと自分を戒めたのだと思います。
落ち込んでもいい。でも負の心をプラスにしていく。
大横綱の双葉山関さえ「木鶏」になれないというのであれば、一般人ではなおさら「木鶏」にはなれないのです。
だから、悪いことや辛いことが起きて、落ち込んでもいいのです。そのうえで、負の心をプラスに転じていくことが重要となります。
こんなエピソードがあります。
ある禅僧が修行の旅の途中で、ひどいあばら屋で一夜を過ごすことになりました。そのあばら屋は天井に穴が空いていて、そこから落ち葉が舞い込み、寒さをしのぐために床板をはがして燃やさなければならないという状況だったのです。そのような状況では、寂しさやみじめな気持ちになっても不思議ではありません。
でも、禅僧がふと見上げると、天井の穴から月の光が射し込んでいて、その光が自分を包み込んでいてくれることに気が付いたのです。
そして禅僧は、「自分はいま、素晴らしい時間を過ごしているのだ」と感じました。それまでの寂しさやみじめな気持ちは消えて、幸福感に満たされたのです。
あばら屋で寒さをしのいでいる状況は変わりません。でも、寂しさやみじめな気持ちを感じる一方で、幸福だと受け取る方向に心を転じていくこともできるのです。
「なぜ、自分ばっかりこんな目に遭うんだ。」という状況になったとき、嘆きや落ち込んだりするかもしれません。
でも、「ここを何とか乗り切ったら、ちょっとやそっとのことでは動じなくなる。なんとか乗り切ってみよう。」という前向きな受け止め方もできるということに気が付いてほしいです。
「神様は乗り切れない試練を人に与えることはない。」という言葉もあります。
そのとき、押しつぶされそうになっても、どうすることもできなくなっても、それはあなたなら乗り切れる試練だから、あなたに与えられたと考えてみると、「心を転じていく」契機になりませんか? 違った方向が見えてこないでしょうか?
昔、僕はホームレスとなり、住む家もなく、公園のベンチで寝泊まりしていたことがあります。ホームレスとなった最初のうちは、夜、公園にいると、ホームレスとなった自分に対して落ち込んだり、今後のことを考えると不安な気持ちになったりしました。
でもしばらく生活していくうちに、「公園で寝泊まりできる環境ある。」という気持ちを持ってからは、
「公園を拠点として、生活していける。だから、もう少し頑張って生きてみよう。」
という気持ちが生れ、結果的には、会社員にもなれました。
おわりに
今回は、落ち込んでもいい。でもそんな時こそ前向きに受け止める方法についてお話しました。
一皮むける、という言葉がありますが、そのためには困難や逆境をくぐりぬける必要があると思います。ただ、困難や逆境に遭遇すると、嘆きや落ち込んだりするかもしれません。
でも、困難や逆境も一皮むけるチャンスだと思って、少しでも「歓迎」するという気持ちを持ってみると、良い方向に向かっていけると思います。
心には、必ず、「転じる力」があります。その「転じる力」を信じて進んでいくと、落ち込んだ心も変わっていけます。